西南院の創建は、初代住職磯島健眞師が昭和18年度第3次満蒙開拓青少年義勇軍として渡満、終戦後過酷悲惨な抑留を経験し昭和22年帰国、夢多かった開拓地にて拓友同胞の悲惨な死を目の当たりにし、満州より引き揚げて後、その慰霊を発願したことに端を発します。
慰霊をするために健眞師は真言宗の霊峰高野山西南院の門をたたき、入山。五年間修行し、帰岡、御津郡一宮町楢津字橋本に居を構え「拓士魂」の碑を設け、日々ひたすら亡き拓友の冥福を祈り続けました。また、師は、開拓魂をもって、我が身を顧みず、広く地域住民に加持祈祷をもって神仏両道で稲荷信仰・不動明王の信仰を広めていきました。
加持祈祷によって救われた多くの熱勢信徒の切望により、大本山成田山新勝寺開創千三十年の勝縁にあたり、「成田山西南院不動講」の認可を受け、当西南院の本尊として勧請 地域の協力により昭和40年備前平野榎城址となる現在地(岡山市楢津)に奉安し宗教法人「西南院」の設立認可を昭和41年5月19日受けました。
師は本堂建立、稲荷社、交通安全祈願所を建て、昭和48年春遷化いたしました。志を引き継いだ磯島隆建が住職となり、地域活動に取り組み客殿を増築して山容を整えました。
真言 | 本尊 | 所属 | 宗旨 |
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のうまく さまんだばざら だん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん |
不動明王 | 泉涌寺派 | 真言宗 |
西南院が寺籍を置くのは、京都東山総本山泉涌寺 真言宗泉涌寺派です。
御寺泉涌寺は、天長年間に弘法大師がこの地に庵を結んだ事に由来する。寺名は法輪寺・仙遊寺と変わり、順徳天皇の御代に開山と仰ぐ月輪大師が時の宋の法式を取り入れてこの地に大伽藍を営み、寺地の一角より清水が涌き出た事により寺号を泉涌寺と改めた。四条天皇が泉涌寺に葬られてからは、歴代天皇の山稜がこの地に営まれるようになり、爾来、皇室の御香華院(菩提所)として篤い信仰を集めています。泉涌寺が「みてら」と呼称される所以であります。
真言宗泉涌寺派の総本山泉涌寺は京都洛東の名刹で、歴代天皇の御菩提を弔う寺で皇室より「御寺(みてら)」と尊称されている由縁であります。京都東山の一嶺の月輪山麓の白砂青松の一画にあって皇室の御菩提床とであり、又四宗兼学の道場として壮麗なる堂宇伽藍が甍を連ね梵(ぼん)唄(ばい)の妙音は松嶺に和して常緑の松蔭に流る真に幽閉脱俗の仙境で清浄無垢の法域であります。
泉涌寺の起縁は、弘法大師が天長年間にこの地に草庵を結び法輪寺と名付けられ後に仙遊寺と改称され、順徳天皇の御代建保6年に月輪大師が中原信房からこの聖地を附与され後鳥羽上皇に上表して大宋の法規に則り大伽藍を造営せられたる際に偶々境内より清泉が湧出したので再び寺号を泉涌寺と改称され、この寺は月輪大師の開山と仰いでいる由縁であります。《月輪大師は肥後の国(熊本県)の生まれで幼少の頃より仏門に入り真俊大徳について修学し後ち大志を抱き宋の国に渡り、求法顕密両乗の薀奥を極め帰国されたる後は、泉涌寺において戒律の復興弘伝を計り北京律の初祖と仰がれた。》従って当時の朝野の尊信誠に厚く、後鳥羽、順徳、後高倉の三上皇は大師を師と仰ぎ後受戒あそばされ、大臣、顕官、名僧等亦挙って受法するに至る。
斯くして大師の滅後も尚皇室の泉涌寺に対する御帰依は益々厚くなり、四条天皇は大師の御転生なりと称せられ、仁治三年正月天皇崩御の際には御山陵も泉涌寺に御造営になる。これより歴代の山稜の多くは泉涌寺の境内に造営され、皇室の御香華院として七百年間特別の御崇敬と御殊遇を賜るに至りました。
霊明殿には天智天皇以降、明治・大正・昭憲・貞明皇后等歴代の御尊牌を奉祀し、泉涌寺は一山を挙げて朝夕怠ることなく御冥福と国家の御安泰を懇祷して皇室の御菩提に奉仕しております。斯くの如き真言宗泉涌寺派総本山泉涌寺を本家寺と仰ぎ総本山より認証を得て岡山に西南院を建立することを得たことは洵に有り難き幸せであります。
西南院住職磯島健真師は昭和十五年満蒙義勇軍として渡満、直ちに現地入隊し大東亜戦争に参戦の末終戦となり、当時の満蒙開拓義勇軍が如何に無惨な最期を遂げ拓友同胞惨めな戦死をされたかを目撃し悲憤慷慨、切歯扼腕したことは筆舌で表現する限りではありません。昭和二十二年満州より引き揚げ後は同胞拓友の英霊に対し慰霊の念禁じ得ざるものが有り自ら発願して真言宗で最も敬厳な根本道場としての高野山西南院に入山することを得、以後五ヶ年間所定の事教の二相を修行し昭和二十八年帰岡、吉備高原の山麓の現在地に一寺宇の建立を志し拓士魂の碑を建立し、ひたすら亡き拓友の英霊の御冥福をお祈り致して居ります。
丁度その頃、千葉県大本山成田山新勝寺は開創千三十年を迎えるに当たり、本山の発意で九州・四国・中国の各地区毎に別院の任命を授くことと相成りましたので、西南院は因縁浅からざる成田山の御本尊をいち早くここに分霊を安置することが出来たのであります。
成田山の縁起を按ずるに、御本尊は人皇五十二代嵯峨天皇の勅願により、弘法大師の「一刀三礼敬刻開眼の不動明王」にして、山城の国高雄山神護国祚真言寺に奉安せられた皇奏無窮鎮安国家の護摩奉修をしていた御尊像であります。それより降って凡そ百三十年人皇六十一代朱雀天皇の御代天慶二年に平将門が関東の地に於いて反乱を起こしたるにより、帝は直ちに寛朝僧正に天国の宝剣を授け朝敵降伏護摩奉修の密勅を下さる。寛朝僧正大命を畏み前記高雄山に奉安せる不動明王とこの宝剣を捧持し、下総の国公津ヶ原に御尊像を安置して修法せし処、霊験顕著にして恰も護摩結願の日に平将門誅に伏す。是偏に明王の御神力なりとして帝より「新勝」の寺号を賜る。猶東国鎮護の為御尊像は永にこの地に留まる。爾来上下の尊信絶えず厳存六百二十余年後人皇第百六代正親町天皇の御代永禄九年現在地に遷座せしめられる。由緒既に正明なれば霊験亦日に新たなり。
斯くして寺運益々盛んに護摩の香煙終年薫り奉誦の讃歌巷に満つ、真に昭代の盛事と謂うべし。
吾が西南院は昭和四十一年一月吉佳を選び中国地区に分神分霊を仰ぎ、除災・延命・家運隆昌・国家安穏・交通安全の守護神となり給う事を念願し、吉備高原の景勝の地榎城跡に分霊を安置す。もとより一旦の落想にあらず、この大願達成には勿論莫大の資材と労力を必要とし前途幾多の難関あるべきも、これが克服突破には不惜身命を覚悟す。
冀わくば本尊明王伏して照鑑を垂れ給い、その大威徳大威神力を廻らしてこの崇計に加被し、経治碍障なく大願成就せしめられん事を祈願し、さらに願わくば篤信の各位も大いに檀波羅蜜の勝志を運出してこの千載一隅の渠願を扶け熱誠協力以て中国地区別院創設の難業を成就せしめ、世出世法倶に通泰し宝祚宝刹均しく偏りなく国泰安民万邦和平を永に祈らん事を念じ、ここに西南院は創立し泉涌寺の教義による寺院発展・地域発展の為の諸事業を行うことを第一義としする篤信者各位も亦絶大なるご支援を伏而懇願致す次第であります。
昭和41年1月吉日
西南院住職 磯島健真
西南院執事 青木堅
1月 | 1日 | 初護摩 | 元旦 0:00より |
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28日 | 初不動 | 講社祭(上半期) | |
2月 | 節分 | 節分祭 | |
28日 | 月例祭 | ||
3月 | 28日 | 月例祭 | |
4月 | 28日 | 月例祭 | |
5月 | 28日 | 月例祭 | |
6月 | 28日 | 月例祭 | 講社祭(下半期) |
7月 | 夏土用丑の日 | きゅうり封じ | 諸病きゅうり封じ |
28日 | 月例祭 | ||
8月 | 28日 | 月例祭 | |
9月 | 28日 | 月例祭 | |
10月 | 28日 | 月例祭 | |
11月 | 28日 | 月例祭 | |
12月 | 第3日曜 | 古札納め | |
28日 | 納不動 |
国道180号線「平津橋交差点」を北に500m進めば西南院です。
岡山方面から中鉄バスで佐山団地、 リサーチパーク行きで「平津橋」バス停下車。北に500m進めば西南院です。